「歯並びが悪くなるから親知らずは抜いたほうがいい」
このような説明を歯科医院で受けた方も多いのではないでしょうか?
しかし、最新の研究では、歯並びの予防のためだけに親知らずを抜くことは推奨されていません。
親知らず(医学用語では智歯・ちし)の抜歯は、歯科治療の中でも特に議論の多い分野です。特に下あごの親知らず(下顎智歯)については、歯科医療の発展とともに、その治療方針が大きく変化してきています。
近年の歯科医学では、「エビデンスに基づく医療(EBM:Evidence-Based Medicine)」という考え方が重視されています。これは、個々の治療法の有効性を、科学的な研究結果に基づいて判断するというアプローチです。
この記事では、下顎智歯の抜歯に関する最新の研究成果と、それに基づく現代の治療方針についてご説明します。
【親知らずは本当に歯並びを悪くするのか?系統的レビューが示す科学的根拠】
歯科矯正治療後の歯列の安定性と智歯の関係については、多くの研究が行われてきました。特に注目すべきは、複数の研究結果を総合的に分析した「システマティックレビュー(系統的レビュー)」の結果です。
このレビューによると、第三大臼歯(親知らず)の存在と、矯正治療後の歯列の後戻りとの間には、統計学的に有意な関連性は見出されていません。
The Effect of Third Molars on the Mandibular Anterior Crowding Relapse—A Systematic Review
Ioannis Lyros, et al. 2023, 11(5), 131; https://doi.org/10.3390/dj11050131
さらに、前向きランダム化比較試験(前向き研究:将来に向かって追跡調査する研究方法で、最も信頼性の高い研究デザインの一つ)においても、前歯部の叢生予防を目的とした予防的智歯抜歯は、科学的に正当化できないという結論が導き出されています。
The effect of extraction of third molars on late lower incisor crowding: a randomized controlled trial
NW Harradine, et al. 1998, 25(2): 117-22; https://doi.org/10.1093/ortho/25.2.117
これらの研究では、以下の重要なポイントが明らかになっています:
・智歯抜歯群と非抜歯群の間で、前歯部の歯列不正に統計学的有意差なし
・矯正治療後の歯列安定性に対する智歯の影響は限定的
・予防的抜歯による歯列不正予防の効果は実証されていない
【親知らず抜歯の必要性を判断する基準】
では、親知らずはいつ抜くべきなのでしょうか?
以下のような場合には、抜歯が必要となることがあります:
・周囲の歯肉に炎症を繰り返している
・隣の歯にむし歯や歯周病を引き起こしている
・異常な位置に生えており、将来的に問題が予測される
・顎骨内に嚢胞などの病変がある
・矯正治療の治療計画上、必要な場合
特に重要なのは、症状が出る前の予防的な抜歯の判断です。
炎症を起こしてからでは、手術の難度が上がり、合併症のリスクも高まります。
【最新の治療方針:個別化医療とリスク・ベネフィット評価】
現代の歯科医療では、画像診断技術の進歩により、三次元的な歯の位置関係や骨構造の評価が可能になりました。これにより、より精密な治療計画の立案が可能となっています。
最新の診断基準では、以下の要素を総合的に評価することが推奨されています:
- 解剖学的要因 ・智歯の萌出角度と方向 ・周囲骨組織との関係 ・下顎管(神経が通る管)との位置関係
- 臨床的要因 ・周囲組織の炎症の有無 ・う蝕(虫歯)や歯周病の存在 ・隣接歯への影響度
- 患者固有の要因 ・年齢や全身状態 ・術後管理の可能性 ・患者の希望や生活環境
特筆すべきは、智歯が顎骨内で「生理的な支持」として機能する可能性も指摘されていることです。つまり、適切な位置に萌出した智歯は、他の歯の位置安定性に寄与する可能性があるのです。
このような科学的知見の蓄積により、現在の治療方針は以下のように変化してきています:
・画一的な予防的抜歯からの脱却
・個々の症例に応じたリスク
・ベネフィット評価の重視
・定期的な経過観察による慎重な管理
結論として、下顎智歯の治療方針は、科学的エビデンスと個々の患者の状態を総合的に評価した上で決定する必要があります。
特に重要なのは、「予防的抜歯」という考え方から、「個別化医療に基づく治療決定」へとパラダイムシフトが起きていることです。